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春の高島城

諏訪湖畔に温泉が湧いていた記録は、古く古墳時代まで遡り、大祝が諏訪を治めていた時代や戦国の頃の古文書の多くに温泉の記録が残っています。

温泉豊臣秀吉の家臣、日根野高吉が建てた高島城には、木製の湯引樋が使われていたことがわかっており、城中に温泉が引かれていたという全国でも珍しいお城だったことになります。
甲州街道上諏訪宿は下諏訪宿で中山道と合流するため、商人や行商人、寺社参りの人々の通行が盛んでした。内湯のある旅籠屋や、馬の入る湯もあったようです。

天明6年(1786年)旅籠屋の数は11軒という記録が残りますが、明治18年(1885年)甲州街道の新道が開かれると、その10年ほど後には、諏訪湖畔に沿った街道沿いに旅籠が移りはじめました。
やがて旅館や飲食店が増え始めて明治37年の中央線案内には、上諏訪旅館として18軒の名前が確認できます。


明治38年、諏訪湖周辺の変化のきっかけになる大きな出来事がありました。
それが、中央線の開通です。上諏訪駅が設置されたことで現在の上諏訪駅周辺がにぎやかになり、諏訪湖畔はさらに旅館や貸席が建ち始めます。

中央線の開通の影響を大きく受け発展したのが蚕糸、製糸業です。

遡ること文和3年(1354年)に桑代として納められた記録があり、古くからこの地域で養蚕がされていた事がわかっていますが、江戸時代の中ごろには岡谷で生糸作りが盛んになりました。
明治5年(1872年)上諏訪で機械製糸が導入されますが、さらに諏訪式繰糸機が生み出されると、岡谷で大規模な工場としての機械製糸が始まりました。明治8年(1875年)のことです。



かつての製糸業の様子

中央線の開通によって、製糸工場には県外からも働きに来る女工さんが増え、寄宿生活をしながら多くの若い女性が働いていました。それとともに貿易も盛んになり、諏訪式繰糸機も次第に全国に広まって 明治42年(1909年)にはついに日本は中国を抜いて、世界一の製糸生産国となりました。

大正から昭和初期にかけて製糸工場の生産力は一段と高まります。 女工さん達の過酷な労働状況が、様々な物語の形でとりあげられていますが、その大変な状況下の中にも、故郷で全く食べられない生活を送るより幸せ、という声もあったそうです。

時は流れ昭和に入った頃、戦争の爆撃を避けるため東京に大きな工場を持つ会社が地方への疎開を検討するようになります。湖のある風光明媚な諏訪を、「東洋のスイス」と呼び、服部時計店と縁のあった有限会社大和工業、当時の市長がその誘致に乗り出し、服部時計店の第二精工舎が諏訪に疎開してきました。現在のエプソンの元となる「諏訪精工舎」になったのです。
諏訪地方では多くの工場が製糸業から精密関係の工場にかわり、諏訪では精密工業が盛んになりました。



産業の発展と共に観光業も発展して参りました。

諏訪・岡谷の製糸業の発展の中で、その中心となった一人、片倉製糸紡績の二代片倉兼太郎は、欧米への視察で地域住民のための充実した健康福祉施設を目の当たりにします。

兼太郎は深く心を動かされ、諏訪にも地域住民の健康、娯楽、社交、文化の向上に役立てられるような施設を造りたい、と願って計画され昭和3年(1928年)ついに片倉館が完成しました。当時内部だけでなく、外観も目を引くおしゃれな西洋の建物で、多くの人が心身を癒されてきました。

今でも地域住民のみならず、諏訪に観光に訪れる人々の癒しとなる片倉館は、製糸業の発展の背景を受けて今の上諏訪温泉の風景に影響を与えたとも言えるかもしれません。



賑わう街の様子

明治40年頃、湖の景色を眺めながらお湯に入ることができる、貸席鶴遊館は広く知られるようになり、その3年後には鶴遊館の前の桟橋から岡谷市湊を結ぶ定期船が就航しました。
(現在ホテル紅やに一番近い湖畔の信号機のあたり)

大正11年には、1日4回諏訪湖一周の遊覧船が定時に出港するようになり、日本でも初の高地での定期船就航となりました。 明治から大正にかけて諏訪湖畔には次々と温泉旅館が建ち並び、今の上諏訪温泉の風景がほぼ出来上っていたことになります。大正14年になると内湯をもった旅館の数は大小百数十にまで達していました。温泉が湧き、四季折々の景色が楽しめる諏訪湖畔に、当時から多くの人々が癒されてきたことがわかります。



スケートを楽しむ学生

大正時代には諏訪中学校(現諏訪清陵高校)で授業にスケートを取り入れたことや、高価なスケート靴に替わって、下駄スケートを作る技術が諏訪地域で発展した事から、次第に人々の間に広がりました。

田んぼに氷を張ったリンクがあちこちに作られるようになり、身近なスポーツになったわけですが、後に長野県から何人ものオリンピック選手を輩出することにつながりました。

諏訪地域では学校教育の中にスケートが取り入れられるほど盛んにスケートが行われてきましたが、そこにも、中央線の開通は大きな影響を与えたともいえます。

寒さの厳しい諏訪湖では自然の環境のなかで厚い氷が張る為、良質の天然スケートリンクができました。

北海道から伝わってきたスケートでしたが、中央線の開通と共に東京や関西から多くのスケーターが訪れて、日本で初めて開かれたスケート大会は「諏訪湖一周スケート大会」。この諏訪湖でした。



現在、上諏訪温泉は自家源湯を持つ宿もありますが、諏訪地域では古くから温泉を共有するという考え方があり、現在も温泉統合によりいくつかの源湯を統合して、そこから温泉施設に供給されるシステムが整備されています。



間欠泉センター

昭和58年(1983年)七ツ釜源湯の掘削がされた際には、100℃前後の温泉が毎分1600リットルという豊富な湯量の温泉でした。吹き上げた間欠泉は50mの噴出をし、当時日本一の間欠泉でした。 以降、諏訪湖の一風景を担ってきましたが。

ホテル紅やで使用している温泉は、あやめ公園源泉、新三ツ釜源湯、新三ツ釜第2源湯から供給された単純温泉 弱アルカリ性低調性高温泉 単純温泉ですが、今でも源泉摂氏60度を超える熱い温泉で私たちの生活や観光に大きなエネルギーとなっています。

更に、昭和24年から始まった「諏訪湖祭」は毎年8月15日の恒例行事となり、全国有数の規模を誇る「諏訪湖祭湖上花火大会」は全国から40万人近い人々が訪れ、たくさんの人で湖畔が埋め尽くされる人気の高い一大行事になりました。
近年始まったサマーナイトフェスティバルは8月中に毎日15分間の花火が打ち上げられ、多くの観光客に喜ばれる夏の恒例イベントとなっています。

また、日本でも有数の大祭に数えられるお祭り、7年に一度の諏訪大社御柱祭も、木落しや川越しの様子を一目見ようと、見物人を集めるようになりました。

平成の時代になり、湖畔護岸工事が進むと、湖畔には更に美術館、公園、スタジアムなどが増え、今ではジョギングロードも整備されて地元の人々も、観光のお客様も散歩やスポーツを楽しめる場所となっています。

参考・引用文献
・諏訪市文化財ガイドブック~上諏訪編~   諏訪市教育委員会発行
・諏訪歴史散歩   諏訪文化社発行
・図解・諏訪の歴史(上)   郷土出版社発行
・諏訪湖 治水の歴史 長野県諏訪建設事務所発行
・諏訪の歴史ハンドブック(近現代編)   諏訪教育会発行
・すわこおもてなしアカデミー「基礎コース」   諏訪湖エリアおもてなし向上推進会議発行